ポーランドの古城【マルボルク城】

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sebageeによるPixabayからの画像

 


マルボルク城

ヨーロッパ最大の赤煉瓦で建てられたゴシック様式の美しい城塞、マルボルク城

 

国名/所在地

ポーランド共和国 / ポーランド北部、マルボルク

 

概要

12世紀に結成された十字軍宗教騎士団の一つ『ドイツ騎士団』(✽1)は、13世紀にポーランド王コンラート1世との条約を結び非キリスト教プロイセン人を改宗させるべくマルボルクに居を構えます。

全て赤煉瓦で建てられたのがマルボルク城です。後に騎士団総長の居住兼、宗教活動や、軍事的活動の本拠地として使用されていきます。しかしポーランドとの争いに敗れ『ドイツ騎士団』は撤退します。

その後領主を何度か入れ代わりながらも、幾度の戦火と攻撃に遭いながら持ち堪えてきたお城は、第二次世界大戦でかつてないほどの大打撃を受け破壊されてしまいます。

終戦後はポーランドの人々によって修復され、かつての美しい姿を取り戻しましす。

 

建築様式

ゴシック様式

 

建設の歴史

ポーランド王マゾフシェ公コンラート1世による非キリスト教であるプロイセン人の改宗を目的とするために、12世紀に結成された当時ハンガリーで活動していた『ドイツ騎士団』(チュートン騎士団とも呼ぶ)をポーランドへ招き入れます。

1274年、ポーランド北部、ヴィスワ川の低地にあるノガト川の岬にゴシック様式のマルボルク城(マリーエンブルグとも呼ばれる)が建てられました。このお城は、『ドイツ騎士団』の総長の居住にもなっており、1308年にはベネツィアからマルボルクへ本拠地を移し毎年修道会総会が開かれていたとされます。翌年には入会者を増やし拡大していきました。

1330年になるとお城の大改築が行われます。上層の城、中の城、下の城と三層からなる構造に分かれます。

1410年、それまで無敵を誇るドイツ騎士団は初めての敗北と更なるポーランド・リトアニア連合軍による追撃に遭いますが、お城はおよそ2ヶ月の攻防戦に持ち堪えました。その後、守備戦においての強化をし復興します。

1440年になると近隣の僧侶や貴族たちがプロイセン連合(✽2)(プロシア連合とも呼ぶ)を結成しポーランド王国と同盟を結んだことによりポーランド王国との関係がさらに悪化します。マルボルク城では敵の側面から火器を使用するための石の防壁が増築されます。そのかいあって1454年の再戦で約半年に及ぶ包囲から持ち堪えています。

1457年、フス派傭兵の裏切りにあい、マルボルク城はポーランド王カジェメシュ四世へ売却されドイツ騎士団の手から離れます。

1466年に第二次トルンの和約(✽3)を結びポーランド領となります。城内の様相も変わりかつて総長の宮殿にあった大食堂は王の接見の場、敷地内には武器庫があり駐屯地となりました。

17世紀に入るとポーランドとスウェーデンの戦争中、マルボルク城はカール十世率いるスウェーデン軍に占領されます。一度ポーランドに戻されますが、再びスウェーデン軍に占領されます。

1660年、オリーヴァの平和条約によりポーランド・リトアニア共和国の領地となります。

18世紀半ばに城の聖マリア教会を何世紀にもわたり管理してきたイエズス会のコレギウムの建設が開始されます。

1772年、第一次ポーランド分割後マルボルク城はプロイセン軍に占領され、美しかったお城は見る影もなく変わり果て、中世に建てられた部分は修復が不可能なまでになっていました。さらにお城の解体工事の話が持ち上がりますが、ロマン派の詩人マックス・フォン・シェンケンドルフによって難を逃れます。

1819年~1850年、建築家アウグスト・ゲルスドルフの指導により再建作業が行われます。

1872年にプロイセン王ウィルヘルム一世(ドイツ皇帝)を迎えプロシア州編入100周年が祝われました。

1880年にはお城の大掛かりな修復工事が行われます。

第三帝国時代、ナチス支配下を経て、1944年に再び要塞としての姿を取り戻したマルボルク城はその翌年に過去最大の損傷を受けます。約半分が破壊されたため、その修復には何年もの時がかかりました。その後、ワルシャワのポーランド陸軍博物館の支部となっていたお城は、文化省下の国家遺産とし観光公社の保護下に置かれます。

1961年博物館として開館。現在に至ります。

1997年には「マルボルクのドイツ騎士団の城として世界文化遺産に登録されました。

 

敷地は東京ドームの約4倍!三層からなる城塞

1310年~1350年頃、お城の左側に来客用の宿泊施設があったとされます。1318年~1340年頃は装飾的な様式で建築された騎士団ホールは来客や騎士団の大食堂となっていました。

マルボルク城の敷地は東京ドームの約4倍とも言われています。三層に大改築された城塞の中でもっとも古いとされるのは、堀と二層の城壁で守られた高い壁と名付けられた場所、『聖アンナ礼拝堂』です。

中の城は三層の中でもっとも大きく豪華で、マルボルクの管理部であり、代表的な場所とされていました。

下の城は、お城の経済を担当していたとされています。兵士たちに必要な武器、倉庫、厩舎、小屋、騎士団のために働く人々が住む住居などの生活に関わる全てが置かれていました。ここからいくつもの厳しい検査を通過しなければ中層部へ入ってこられなかったそうです。

♔ドイツ騎士団の最大の財源は琥珀だったそうです。『中の城』の途中、東棟の地下『ハルバールホール』で展示されている琥珀は必見だそうですよ(^-^)

 

まとめ・感想

宗教組織の一団が築いた城塞は、やがてポーランド王朝からプロイセン、またドイツへ戻り、戦火にまみれ波乱の歴史を歩んできます。マルボルク城は、終戦後にポーランドの正式な所有となり大改修を経て、かつての栄華の時を過ごした美しいゴシックの様装を取り戻します。

赤煉瓦で建てられたその外観はハッと目を引きます。この地は石材が不足していたため赤煉瓦造りになったという説がありますが、敵に包囲され何日もその攻撃に耐えたお城なので、案外丈夫なのですねo(^▽^)o(そう言えば有名な『三匹のこぶた』でも煉瓦造りの家は壊れることなく末っ子が兄二人をオオカミから助け出すお話でしたね☆彡)

 

✽1 12世紀末、十字軍時代に創設された三大宗教騎士団の一つ。第三次十字軍の際にドイツ兵士救護のための病院創設が起源とされています。16世紀初頭に解体しています。

✽2 15世紀、ドイツ騎士団に対抗するために結成された自治領連合。プロシア地方19都市と貴族、僧侶53人からなる。

✽3 1466年、ハンザ同盟の都市トルンにてポーランド国王カジミェシュ四世とドイツ騎士団との間で結ばれた平和条約。この条約によってプロイセン連合とドイツ騎士団との戦争、十三年戦争(1454年~1466年)が終結されました。

 

参考資料:歴史的古城を読み解く/マルコム・ヒスロップ著/㈱ガイアブックス/2014年

参考資料:ヨーロッパの古城+宮殿がよくわかる本/桐生 操 監修(株)レッカ社編著 2010年

参考資料:世界一美しい夢の城図鑑/世界のお城研究会 編/宝島社 2014年

他多数のWebサイトから参考にしております

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