エルツ城
Alexander NaumannによるPixabayからの画像
ノイシュヴァンシュタイン、ホーエンツォレルンと共に『ドイツ三大美城』といわれるエルツ城。
建立から一度も破壊された事のない古城です。
国名/所在地
ドイツ連邦共和国 / ラインラント=プファルツ州、コブレンツの近郊、モーゼル川沿いアイフェル山地。
概要
ライン川の支流モーゼル川最大の古城といわれるエルツ城は、12世紀にフリードリッヒ1世の皇帝譲渡証書に名をのこす、ルドルフ・フォン・エルツが居住していました。この城を曾孫に当たるエリアス、ヴィルヘルム、ディートリッヒの三兄弟それぞれに分家されます。それ以降は三家の共同財産となります。
エルツ城は家臣、家来などをが増えるごとに増改築を行っていきました。最終的に100室ほどの部屋が作られ、100人くらいの人たちが住んでいたとされます。最盛期などは家族だけで暮らしていたとされます。
14世紀に、エルツ家は神聖ローマ帝国において皇帝にのみ従う者と自認していた為、選帝侯であるポールドウィンの支配権力に異を唱え、周辺の小領達と共に戦いますが、最終的に城を破壊される事なく和平を望み、選帝侯の臣下に下ります。
その後もエルツ家がお城の管理を任され、増改築を繰り返すとともに様々な建築様式が混じり合う複合建築へとなっていきました。
建築様式
建設の歴史
1157年、ルドルフ・フォン・エルツがこの城の南側、プラット・エルツとよばれる城館に住んでいたとされます。
1268年、ルドルフの曾孫3兄弟に分家され城と共に農園が分割されます。エルツ城は共同居住城となります。
1331年~、神聖ローマ帝国のカール四世の叔父、選帝侯ポールドウィン・フォン・トリヤー大司教の領土統一に対抗し、周辺の小領達と共に【攻守同盟】を結びます。ポールドウィンは弾圧のため、エルツ城の前面にある崖の上に砦を築き攻撃及び監視をします。エルツ城は補給路を絶たれ兵糧攻めに遭います。
1333年~1337年、エルツの騎士たちは和平を求め【エルツ和平】が締結されます。この時、攻守同盟は破棄、解散となりました。ポールドウィンの建てた城はそのまま残り、ヨハン・フォン・エルツを相続権付きで城代に任命します。
1354年、エルツ城はカール四世によってポールドウィンに与えられます。エルツ一族は自由な帝国騎士団からトリヤー選帝侯の家臣としてエルツ城を貸与され、引き続き管理していくことになります。
1472年、最初に後期ゴシック様式のリューベナッハ・ハウス(銀獅子のエルツ)が、お城の西側の中庭に完成しましす。その少し前から建設が始まるローデンドルフ・ハウス(水牛の角のエルツ)は、大ローデンドルフ館と小ローデンドルフ館となっており、10の階層で40mにも及ぶ城内最大の城館になります。他の城館に比べると、少し暗めの城壁に上層部は赤と白のハーフティンバー(木材の骨組みをむき出しにし、合間にレンガや壁土で埋める技法)になっている屋根窓が印象的です。こちらは1540年に完成します。
1604年~1661年、ケンペニッヒ・ハウス(金獅子のエルツ)が建てられます。後期ゴシック様式で、こちらも上層に赤と白のハーフティンバー様式が用いられています。1651年に完成。
また、玄関の門の上にある二本玄武岩の柱によって支えられている出窓の部屋は1661年に完成しています。
17世紀後半、プファルツ継承戦争の時、ルイ十四世率いるフランス軍によって、モーゼル川沿いの城塞が次々に攻撃に遭い破壊されていきます。
しかし、エルツ家出身のフランス軍上級将校だったハンス・アントン・エルツの尽力により攻撃対象から外され、ただの一度も破壊されずにきています。
1786年、ローデンドルフ家が断絶。ケンペニッヒ家が相続します。
フランス革命後、エルツ城は一時没収されフランス司令部の管理下に置かれます。その後返還されます。
1815年、リューベナッハ家の財産を買い取って、ケンペニッヒ家が単独でエルツ城の管理をしていくことになります。
19世紀中頃~エルツ城はカール・エルツ伯により改修を行います。工事の途中にも関わらず、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や文豪のヴィクトル・ユーゴーをお城に招待していたとされます。
♔19世紀はロマン主義者によって城郭の復興運動が盛んな時代で、中でもエルツ城の様な複合建築が人気だったとされます。
1920年、エルツ城のケンペニッヒ・ハウスの南側で火災が起こり、一部焼け落ちるもすぐに修復されました。
1982年、リューベナッハ・ハウスの地下に宝物館が建てられます。
エルツ家34代目当主カール、グラーフ・フォン・エルツ(カール、エルツ伯)が2006年に相続されています。
2009年~2012年にかけて老朽化に伴い、大規模な修復工事が行われました。
城内の見所
騎士の間・・・ローデンドルフ・ハウスの三階東側にあり、城内で最も大きいホールです。宴会や交渉の会場として使用されていました。
ここは共同空間で誰でも入れる広間となっており、この部屋では何を喋っても罰せられないとした言論の自由の象徴とする『馬鹿のお面』が飾られています。
また出口には寡黙のシンボル『沈黙のバラ』の彫刻があります。17世紀の板絵15枚は旧約聖書の場面を現しているそうです。
礼拝堂の館・・・ローデンドルフ・ハウスの三階北側にあり、三家の共同建物で誰でも入室が可能の館です。
ゴシック様式の張り出し窓には祭壇があり、外観から見る窓の左上に竜を象った雨樋があります。
選帝侯の間・・・ローデンドルフ・ハウスの三階西側にあります。
エルツ家からはヤコプ・フォン・エルツ=リューベナッハとフィリップ・カール・フォン・エルツ=ケンペニッヒの二人が選帝侯になっており、この部屋には二人の肖像画が飾られています。
ヴァームボルトの間・・・ローデンドルフ・ハウスの2階部分にあります。17世紀に建立されており、当時の生活の様子を伺い見ることが出来ます。
旗の間・・・ローデンドルフ・ハウスの一階部分にあり、後期ゴシック様式の星の形をした丸天井は、構造的に天井を支える役目をしつつ、装飾的な趣を見せています。
また、守護神聖ゲオルクと竜の戦いの場面を表しているステンドグラスがあります。
♔ エルツ城を見学すると宝物館が自由見学出来るそうです。希少価値のある金銀細工の工芸品や彫刻、食器などが展示されているそうです。
まとめ・感想
エルツ城の最大の魅力は複合建築にあるのではないでしょうか。
現在の姿になったとされる16世紀以降から一度も破壊行為に遭ったことがないので、中世からその時代を彩る建築様式が見られる貴重な古城です。
人里離れた密林の中という立地がこの城を守ってきたと言えますね。
そもそも城郭というよりは城館の趣が強かったとされています。
上層部にある三角のとんがり屋根とハーフティンバーのおかげで、メルヘンチックさが伺えるのだなと思いました。
参考資料:世界一美しい夢の城図鑑/世界のお城研究会 編/宝島社 2014年
他多数のWebサイトから参考にしております
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