ヴァルトブルク城
Klaus Dieter vom WangenheimによるPixabayからの画像
900年以上の歴史を誇るドイツのヴァルトブルク城。
ドイツの芸術文化や歴史的に、とても重要な古城の一つです。
国名 / 所在地
ドイツ連邦共和国 / ドイツ中部テューリンゲン州、アイゼナハ
概要
ドイツの古都アイゼナハの崖の上に建つヴァルトブルク城。このお城には数多くの芸術文化、歴史に関わっています。
まずは、12世紀に伝説として語り継がれる宮廷詩人たちの『歌合戦』が、このお城で行われていました。その数十年後には、騎士で抒情詩人(ミンネゼンガー)ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデや、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(ドイツ文学者、叙事的作品を多く残しているドイツの詩人(歌人))などが参加しています。
19世紀、この『歌合戦』を元に、リヒャルト・ワーグナーは『タンホイザー』を書いたと言われています。
13世紀にはハンガリー王女エリーザベトが貧しい人々や病人のために尽力し、病院を設立。ドイツの人々から尊敬され、逝去後には聖エリーザベトとして信仰されます。
また、16世紀には宗教改革者であるマルティン・ルターが、このお城で新約聖書のドイツ語翻訳を行っています。
建築様式
後期ロマネスク様式
建設の歴史
1067年にテューリンゲン方伯ルートヴィヒ・デア・シュプリンガーが創建した城塞です。
♔ヴァルトブルク創建は諸説あり、1073年という説もあります。
1130年~1140年、息子ルートヴィヒ1世は皇帝バルバロッサの妹ユタと結婚し、このヴァルトブルク城を拠点とします。
1170年にお城は後期ロマネスク様式をメインとした居城となります。
♔ 現在のお城はこの時築かれたものが中心と言われています。
1206年~1207年、ヘルマン1世の時代には宮廷の抒情詩人(ミンネゼンガー)たちによって『歌合戦』が行われます。後に、『ヴァルトブルクの歌合戦』として歌集が編纂(編集)されています。
ハンガリーの王女エリーザベト・フォン・ウンガルンが、ヴァルトブルク城へ連れて来られたのは4歳の時でした。
1221年、14歳でルートヴィヒ4世と政略結婚、3人の子供を授かります。
1223年、フランシスコ会修道士の訪問、アッシジのフランチェスコの教えによって、エリーザベトは信仰心をあつくしました。
1227年、ルートヴィヒ4世が第6回十字軍の従軍中、疫病にかかりイタリアのオトラントで亡くなります。嫡男ヘルマンがまだ5歳のため、ルートヴィヒ4世の弟ハインリヒ・ラスべが摂政となります。しかし、ハインリヒと姑に疎まれたエリーザベトはお城を追われます。
その後フランシスコ会に入会し病院を設立、病人や貧しい人々のために尽力し1231年、24歳で逝去します。
13世紀中頃のお城は宮廷文化が開花していきましたが、主要の拠点ではなくなります。
ヴァルトブルク城を引き継いだマイセン出身のハインリヒ・デア・エアロイヒテの時代からヴェッティン家が、650年に渡りテューリンゲンとヴァルトブルクを支配しました。
その後、お城の増改築が行われます。1478年にハーフティンバー様式の廊下が造られます。
16世紀、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢明公)(✽1)は、カトリック教会を糾弾したためアハト刑(帝国追放)が決定したマルティン・ルターを保護する目的で誘拐を偽装してお城に匿います。
こうしてルターはフリードリヒ3世の庇護の下、ヴァルトブルク城で【新約聖書】をドイツ語に翻訳する作業に取り掛かります。
♔ルターの破門・追放の理由が衝撃でした・・・教会は、「これを買えば罪が免れる」という【免罪符】を販売します。市民はこぞって買い求めます。これに対してルターは、救いがお金で買えるのか!と訴え出ますが、ローマ教皇に破門されてしまいます・・・。これで破門・追放って、現代では考えられないですね(-_-;)
17世紀、三十年戦争以降のお城は荒廃していきます。
1777年に文豪ゲーテが滞在します。
19世紀の初めにドイツ学生同盟の集会が催されます。1813年ライプチッヒの戦い(諸国民の戦い)(✽2)でナポレオン軍に勝利します。
1838年~1890年、カール・アレクサンダー大公がお城の修復作業を行います。
1922、ヴァルトブルク財団が設立します。以降、お城の保護管理や建築、歴史などの研究を行っていきます。
1999年にユネスコ世界文化遺産に登録されます。
文化的、歴史的背景
城内にはヴァルトブルク城、縁の人物たちの部屋があり、また伝説の『歌合戦』が行われていた広間が公開されています。
◆歌合戦の間・・・伝説としてこの広間で行われていた叙情詩人(ミンネゼンガー)たちの競技『歌合戦』は、19世紀にワーグナーが、これから着想して有名な歌劇『タンホイザー』を書いたとされます。
広間にはミンネゼンガーたちが競い合っている様子を、『タンホイザー』の歌合戦の一場面として描かれたフレスコ画が展示されています。
♔通常『タンホイザー』として知られていますが、正式名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』とあり、全三幕で構成されるオペラです。簡単に言いますと、騎士で吟遊詩人のタンホイザーが愛する恋人がいながら官能的な世界に溺れ葛藤する・・・といったお話ですね( ̄ー ̄) 恋人のエリーザベトの献身的な愛には心を打たれます(;>_<;)
♔ミンネゼンガーとは何ぞや?と思い、調べたところ
中世フランスのトゥルバドゥールやトゥルヴェールに相当し、これらフランス文化の伝統を受け、中世の貴族社会に伝統的な騎士道精神や宮廷の愛について歌った。
(出典元:Wikipedia)
とあります。【ミンネザング=愛の歌】を作ったり歌ったりする人の事をミンネゼンガーと呼ぶそうです。「ミンネ」とはドイツ語で「愛」を意味します。つまりミンネゼンガーとは【愛の歌い手】ということですね(^_^)
◆エリーザベトの間・・・アーチ状の天井と床は美しいモザイク模様で、金色の煌びやかな部屋となっています。資料写真で見る限りは、彼女のイメージとは程遠い印象です。(どうも、当時のものではないらしいです・・・。)ここでは、彼女の生涯が描かれた壁画を見る事ができます。
また、エリーザベトの回廊と言われる廊下には、6つのフレスコ画があり、そこには4歳でルートヴィヒ4世の花嫁としてヴァルトブルク城へ来てから、夫との死別、城を追われ死の床に伏した後、聖女として列せられ聖体を担ぐセレモニーの場面までが描かれています。
◆ルターの部屋・・・城の北端にある小部屋で、机と椅子、ストーブなど、必要最低限の家具や調度品が置かれているだけの簡素な作りとなっています。ここは当時のまま保存されているそうです。(ただし、椅子は19世紀のコピー)
1521年にローマ教皇から破門されたルター(滞在中はゲオルグと名乗る)はフリードリヒ賢公の庇護の下、1522年の3月まで、新約聖書のドイツ語訳をこの部屋で行っていました。カトリック・ラテン語の聖書ヴルガータのみならず、原典となるギリシャ語のテキストを使用していたとされます。
これは、「誰」に依頼されたのではなく、あくまで個人の信仰によって、民衆がドイツ語で聖書を読むことが出来るようにという思いから行動していたとされます。
1522年の3月まで翻訳作業を行い、その年の9月に【9月聖書】としてドイツ語最初の新約聖書が出版されます。
◆祝典の間・・・3階にある大広間。バイエルン王ルードヴィッヒ2世がノイシュヴァンシュタイン城を建設するキッカケとなった大広間です。
また、19世紀初めにドイツの学生同盟の学生たちが集会を催しました。先のライプチッヒ戦勝利のお祝いとドイツ連邦成立の確立。(学生同盟の旗は、今のドイツ国旗に使用される黒・赤・黄の基になっています。)
まとめ・感想
中世の騎士で宮廷詩人たちの歌合戦をはじめ、王女から修道女、聖者になったエリーザベト。また、偉大な功績を残した神学者であり宗教改革者マルティン・ルター。
ドイツの文化史に残る重要な舞台となたヴァルトブルク城は、ドイツの歴史を知る上で欠かせない古城の一つです。
✽1 ヴェッティン家のザクセン選帝侯。宗教改革の指導者ルターの庇護者。プロテスタントの承認。ヴィッテンベルク大学を設立。
✽2 1831年10月、ドイツ東部のライプチッヒ郊外でプロイセン・オーストリア・スウェーデン・ロシア同盟軍が、フランスのナポレオン軍に大勝利した戦い。同盟軍32万に対し、ナポレオン軍は19万と劣勢を強いられ撤退した。ナポレオン退位のキッカケとなりました。
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