フランスの古城【アンボワーズ城】

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アンボワーズ城

 


Laure GREGOIREによるPixabayからの画像

シャルル7世からフランソワ1世までのフランス王が、好んで滞在したアンボワーズ城

また、フランソワ1世に愛された偉大なる芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチのお墓は、お城の大きな見所の一つです。

お城は、ユネスコの世界遺産『シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷』に含まれています。

国名 / 所在地

フランス共和国 / ロワール渓谷、アンドル=エ=ロワール県、アンボワーズ

 

概要

11世紀に城塞として築かれたアンボワーズ城は、15世紀のヴァロワ朝時代(1328年~1589年)に城館へと改築されていきます。しかし、その後に起こる宗教闘争や革命で荒廃していきました。

今日、見ることの出来る往時の部分は、シャルル8世が着手しルイ12世フランソワ1世に引き継がれ、ミニムの塔に見る事が出来ます。

また、フランソワ1世に庇護されイタリアから招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓が城内のサン・テュベール礼拝堂にあります。

 

建築様式

ゴシック・フランボワイヤン様式、ルネサンス様式

 

建設の歴史

アンボワーズの町は、トゥーレーヌ地方の起源とされるケルト人の一部族トゥロネス族が暮らす町でした。その頃から断崖の岩山に要塞が築かれています。

ノルマン人の侵攻を繰り返し受けながらその後、11世紀にこの地はアンジュー伯の領地となります。その頃は石造りの要塞でした。

その後、アンボワーズ・ショーモン家へと渡ります。

1214年、トゥーレーヌ地方はフランス王フィリップ・オーギュストが統治、ショーモン家は封臣(ほうしん/中世ヨーロッパの封建制度において主君から領地を与えられた臣下)となります。

1431年、城主ルイ・アンボワーズは、時のフランス王シャルル7世のお気に入りだったフランス貴族トレモイユへの陰謀を企てた罪によって、死刑判決が下されます。

ルイ・アンボワーズは、赦免されたもののアンボワーズ城は没収、王の領地となりました。

♔ フランスの王位継承権と領有権をめぐり、イギリス(プランタジネット家)とフランス(ヴァロワ家)の争いが1339年~1453年まで続きます。有名な【百年戦争】です。シャルル7世が最大の窮地に陥った際、救世主ジャンヌ・ダルクが現れ危機を逃れフランスで戴冠式を行います。

しかしジャンヌはブルゴーニュ派の兵士によってイギリス軍に引き渡され、宗教裁判にかけられ火刑に。1450年にはノルマンディを奪回、1453年にイギリス領のギエンヌ地方の中心であるボルドーを占領。これによりカレーを除きほとんどがフランス本土からイギリスの支配地はなくなり、【百年戦争】は事実上終結しました。この3年後ジャンヌ・ダルクは復権裁判で無罪となっています。

1461年、シャルル7世は息子であるルイ11世との対立に悩みながらその生涯を閉じます。

ヴァロワ朝第6代目王ルイ11世は、父王の後を継ぎフランス統一に努め、絶対王権の基礎固めをします。この時代の宮廷はトゥール城にありましたが、ルイ11世は王妃と王子をアンボワーズ城に住まわせています。

1469年、城内のサン・フロランタン参寺院にてフランス初の騎士団【サン・ミッシェル騎士団】を結成します。(※19世紀にサン・フロランタン参寺院は取り壊されます。)

1470年、アンボワーズ城で生まれたヴァロワ朝第7代目王シャルル8世は、1483年に父王が死去したため、13歳という若さで即位します。姉のアンヌ・ド・ボージューと義兄ブルボン公ピエール2世夫妻の摂政下におかれます。

1492年、シャルル8世により、ゴシック・フランボワイヤン様式で改築を進めます。

1495年、二人のイタリア建築家ドメニコ・コルトナ、フラ・ジョコンドによって、フランスで初のルネサンスの装飾モチーフを取り入れました。また、騎兵や馬車などが通行出来る大規模な2つの塔の建設を命じます。

1498年、シャルル8世は塔の完成を待たずに、扉のカマチに頭をぶつけるという不運な事故により、28歳の若さで急死します。

♔不運にもほどがある。。。(゜m゜;)

シャルル8世には男性の相続人がいなかったため、従兄弟のオルレアン公爵がルイ12世としてヴァロワ朝第8代目王となります。

ルイ12世は、前王の未亡人アンヌ・ド・ブルターニュ女王と結婚、これによりアンヌはフランスで唯一の女王の称号を2回保持する女性となります。

王は、シャルル8世から引き継いだ塔を完成させます。また元々の領地であるブロワ城に居住し、従兄弟で後継者のフランソワ・ダングレーム(後のフランソワ1世)はアンボワーズ城で育てられます。

1515年、ヴァロワ朝第9代目王フランソワ1世が即位し、ルイ12世の建設した翼棟を改築します。

フランソワ1世は、アンボワーズ城の近くにあるクロ・リュセ城に、イタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチを招いて住まわせます。

♔フランソワ1世は、宮廷文化を開花させ、芸術にも明るくレオナルド・ダ・ヴィンチの庇護者でもありました。その一方で、繰り返しイタリアと戦争し野心家でもありました。また、クロ・リュセ城はアンボワーズ城から約400mの距離にあり地下道でつながっているそうです。

このクロ・リュセ城がとっても可愛らしく、わたし好みのお城なんです☆彡
是非とも訪れたい古城の一つになりました(^▽^)
ちなみにこちらもアンボワーズ同様、世界遺産の一部として登録されています。

♔レオナルド・ダ・ヴィンチの墓がアンボワーズ城内のサン・テュベール礼拝堂にあるのですが、案内版によると『遺骨は本人との確証がない』旨が注意書きとして記載されているそうです。また、『レオナルド・プロジェクト』として現在特定するための調査が行われています。

1547年、フランソワ1世とクロード王妃の次男、ヴァロワ朝第10代目王アンリ2世が即位します。王妃はカトリーヌ・ド・メディシスで、メディチ家ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの娘にして、後のフランス王となる3人の実母となります。

カトリーヌは、イタリア文化と芸術を積極的に取り入れていきます。

アンリ2世は、長いイタリアとの戦争を締結、撤退し和解します。その後、娘エリザベート神聖ローマ皇帝カール5世の息子フェリペ2世(スペイン王)との婚約が決まりその祝宴の際、馬上槍試合で右目を貫かれる重傷を負います。1559年7月、その傷が元で死去します。

1560年、アンリ2世とカトリーヌの長男、ヴァロワ朝第12代目王フランソワ2世はまだ16歳と若く、王妃でスコットランドの女王メアリー・スチュアート伯父ギーズ公が実権を握り、新教徒(プロテスタント)の弾圧を行っていました。

コンデ公支持の新教徒たちは、アンボワーズ城でフランソワ2世の誘拐を企てます。しかし彼らは逆に捕まり、裁判にかけられ広場で処刑されます。この時、率いた者たちは見せしめとしてバルコニーに吊るされました。

これが発端か、宗教観の対立が信仰上のものから政治的な抗争へと変換していきます。

♔ ヴァロワ朝第12代目王シャルル9世(フランソワ2世の弟)の時代、1572年に歴史上有名な『サンバルテルミの虐殺』が行われます。その2年後にシャルル9世は死去。弟アンリ3世がヴァロワ朝最後の王となりますが、ギーズ公を暗殺し、その後自身も暗殺されます。因果応報、悪因悪果とはこのことですね。。。(-_-;)

1589年、アンリ2世とカトリーヌの娘マルグリットと結婚したナバラ王アンリが王位を継承し、アンリ4世としてブルボン朝の最初の王となります。

♔ アンリ4世は、もともとカトリーヌがユグノー(プロテスタント)とカトリックの融和を図るため、娘と結婚させたといいます。サンバルテルミの事件後、カトリックへ改宗させられます。しかし、シャルル9世が死去し逃走したナバラ王アンリは、プロテスタントに再改宗します。

カトリック同盟のギーズ公アンリアンリ3世とナバラ王アンリの三つ巴の戦いは、2人のアンリが暗殺され終止符がうたれました。1598年にアンリ4世は『ナントの勅令』を出しプロテスタントに一定の制限を設け、信仰の自由を容認しました。

17世紀初め、ブルボン朝第2代目王ルイ13世は弟のオルレアン公ガストンにアンボワーズ城を与えます。しかし、ほとんど放置状態となりガストンの死後は王家に戻されました。

『フロンドの乱』(✽)では、刑務所として使用されます。

18世紀になるとブルボン朝第4代目王ルイ15世は、大臣のショワズール公エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールにアンボワーズ城を与えます。ショワズール公の死後は再び王家の所有となります。

1789年、ブルボン朝第3代目王ルイ14世の孫にあたるバンディエーヴル公ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボンは、お城のリビングを改修、ミニム塔のパノラマ・ダイニングルームと北側のテラスにイギリス風庭園を造ります。また、西側にGarconnet塔(ギャルソネの塔)の上に中国式の塔を増築しました。

しかし、同じ年に7つのロッジア(開廊)が火事になります。

1798年~1799年のフランス革命で、お城は没収され退役軍人のための兵舎と拘置所として使用されます。

1806年~1810年、お城の老朽化が進みかなりの建物が取り壊されます。

1815年、バンディエーブル公の娘ルイーズ・マリー・アデレード・ド・ブルボン、オルレアン公爵夫人は、没収された父親の遺産を取り戻します。

1821年、ルイーズの息子ルイ・フィリップ(後のフランス王)がアンボワーズ城を受け継ぎます。お城の周辺にあった46の家屋を取り壊し、アンボワーズ城を再建します。

1843年、アルジェリアの侵略が進んでいく中、ルイ・フィリップの息子オマール公によって、アブド・アル・カーディルを首長とするスーフィー教団の征服が行われます。

1847年にカーディルが降伏し、家族や側近と共にアンボワーズ城へ幽閉されます。皇帝ナポレオン3世のはからいによって1852に開放されるまで、4年間をアンボワーズ城で過ごします。

お城の庭園に彼の従者たちを悼む記念碑が建てられます。カーディルは1883年に死去。

1874年~1879年、 ルイ・フィリップの相続人ヴィクトール・リュブリッシ・ロベールにより【会議の間】の最初の大改修と、ミニム塔の修復工事が行われました。

1896年~1897年、ガブリエル・リュブリッシ・ロベールにより、ルイ12世とフランソワ1世の翼塔の修復工事が行われました。

1940年~ 戦争により甚大な被害を受けます。

1952年には、失われた部分の修復工事が行われます。

1989年~1992年にルイ12世とフランソワ1世の翼塔、1993年~1995年にはシャルル8世の翼塔が修復されます。

その後も2015年までお城の修復工事が続きます。2014年には一般公開されます。

現在、ルイ・フィリップの子孫、アンリ・ドルレアン(バリ伯アンリ)が、サン・ルイ教会を通して管理をされています。

 

アンボワーズ城の見所

Photo Credit:Vue générale du Château d’Amboise © L. de Serres

アンボワーズ城の見所と言えば。。。なんと言っても表側と裏側の外観がまるで違いますv(^▽^)v

そもそもどちらが表でどちらが裏なのか?やはり、ロワール川と町を見下ろす様に佇む姿が表側(北側)でしょうか。なんとも壮麗です☆彡 お城の裏側?(南側)は、入口となっています。

 

Photo Credit:Chapelle Saint-Hubert Château d’Amboise © AB.FSL

◆サン・テュベール礼拝堂・・・入口を入ってすぐにあります。ルイ11世が建てた教会の基盤に建てられました。こじんまりとしていますが、ゴシック様式の高い尖塔が目を惹きます。

内部は美しいステンドグラスとレオナルド・ダ・ヴィンチのお墓があります。(※彼は、1519年5月2日に死去するまでアンボワーズで過ごしたそうです。)

 


Oleg MityukhinによるPixabayからの画像

◆シャルル8世の翼塔とルイ12世とフランソワ1世の翼塔・・・中庭側から見て左側がシャルル8世のゴシック・フランボワイヤン様式の翼塔で、右側がルイ12世とフランソワ1世のロワールで最初のルネサンス様式の翼塔になります。窓や屋根にその特徴が見て取れます。

 

Photo Credit:Salle du Coneil Château d’Amboise © E.Sander

◆会議の間・・・祝宴や王の接見など宮廷行事に使用されていました。ゴシック様式とルネサンス様式の2つの暖炉が見所の一つです。

 

Photo Credit:Jardin. Château d’Amboise © L. Do

◆お城の庭園・・・東側、見学者の出口となる目前に【ナポリの庭園】、その奥側に【風景式庭園】【南庭園】、その奥に【東洋の庭園】があります。どこも皆、手入れの行き届いた庭園です。

特に【ナポリの庭園】は、15世紀にシャルル8世が招いたナポリの庭師、ドン・パッチェロが作った庭をモチーフにしています。

 

王城の見学

Photo Credit:Souterrains. Château d’Amboise © L. de Serres


アンボワーズ城は4つの見学コースがあります。

●個人見学・・・パンフレットとオーディオガイドで自由に見学。オーディオガイドはフランス語、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語、ブラジル語、ロシア語、ポーランド語、日本語、中国語、韓国語に対応しています。

また、パンフレットはフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、ポーランド語、ロシア語、ハンガリー語、チェコ語、ルーマニア語、日本語、中国語があります。

●団体見学・・・公認のガイドさんが案内してくれます。ガイドはフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語から選べます。(日本語がない・・・Σ(゚д゚lll))

教育機関の団体見学障害者用の見学など、それぞれ対応されています。

★特別コース・・・王城の地下と塔を見学できます。ルネサンス時代に建てられた居住の地下に存在する中世の要塞や、【ギャルソネ塔】、【ミニム塔】【リスの間(衛兵たちの食堂)】など。

ちなみに総合案内はフランス語と英語のみ。

 

まとめ・感想

アンボワーズは、アンリ2世の時代まで王侯貴族に愛された地でした。アンリ3世以降、アンボワーズ城へはほとんど滞在されることはなくなります。

アンリ4世の頃にはトゥーレーヌ地方から離れ、イル・ド・フランス地方へと宮廷が移ります。アンボワーズ城は君主が旅行する際の宿として使用される様になります。

現在のアンボワーズ城は全盛期の頃より建造物が大幅に無くなりましたが、それでもロワール川の中州を挟んだ対岸から見るお城は美しく、一目見たいと思う人々が日々訪れるのでしょう。

 

(✽)17世紀に起こったフランス貴族による最後の反乱。貴族勢力は打倒され絶対王政が確立につながった。(出典:Wikipediaより)

 

参考資料:アンボワーズ公式URL=https://www.chateau-amboise.com/ja/

参考資料:世界一美しい夢の城図鑑/世界のお城研究会 編/宝島社 2014年

他多数のWebサイトから参考にしております

 

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