イタリアの古城【スフォルツェスコ城(スフォルツァ城)】

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スフォルツェスコ城(スフォルツァ城)

Igor SavelievによるPixabayからの画像 

ミラノ公国の堅固な城塞、スフォルツェスコ城。

ヴィスコンティ家が築いた居城跡に、スフォルツァ家が再建、改築していった古城です。

 

国名 / 所在地

イタリア共和国 / 北西部ロンバルディア州、ミラノ

 

概要

イタリア北西部ミラノの貴族ヴィスコンティ家が築城した後、支配者となるスフォルツァ家によって改築されていき、堅固な城塞となっていったルネサンス様式の代表的な古城、スフォルツェスコ城。

元々は、星型の広大な城郭だったとされていますが、現在は当時の四分の一以下となっており、建物以外の場所は緑豊かな公園(センピオーネ公園)が広がり、市民の憩いの場となっています。

お城は現在博物館として公開されており、数々の美術品(主に彫刻など)が展示されています。ミケランジェロの最後の作品『ロンダニーニのピエタ』(未完成)も、その一つです。

またルドヴィーゴ・スフォルツァは、芸術に造詣が深くレオナルド・ダ・ヴィンチドナート・ブラマンテの支援者であり、ダ・ヴィンチに『最後の晩餐』を依頼した人物です。

 

建築様式

ルネサンス様式

 

建設の歴史

14世紀の北イタリア・ミラノ貴族、ヴィスコンティ家僭主(せんしゅ〈実力で君主の座についた者〉)ガレアッツォ2世ヴィスコンティによって築城されます。

1392年、後継者のジャン・ガレアッツォが兵舎を増設します。

1395年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルに認められ初代ミラノ公国の公爵になります。

1447年、子孫によって居城として拡張されていきましたが、ミラノ発足のアンブロジアーナ共和国(✽)に破壊されます。

ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの娘、ヴィアンカ・マリーアの夫であるコンドティエーリ(傭兵隊長)出身のフランチェスコ・スフォルツァが、べネチアと組んでアンブロジアーナ共和国への攻撃を始めます。

1450年、アンブロジアーナ共和国は崩壊し、ヴィスコンティ家に変わりフランチェスコ・スフォルツァはミラノを再建、居城を改築し城塞とします。

1452年、スフォルツァに仕えていたフィレンツェのアントニオ・ディ・ピエトロ・アヴェルリーノ(アントニオ・フィラレーテ)が、中央塔のファサードを設計しますが、生きて完成を見ることは出来ませんでした。

引き継いだのは、スフォルツァの信頼を得ていた軍の建築家でした。巨大な二つの円塔とィラレーテ・タワーが建てられます。

1476年、サヴォイア家の公女でミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの2番目の妻ボナ・ディ・サヴォイアは、2月にガレアッツォ・マリーアが陰謀により暗殺されたため、まだ若い息子デューク・ジャン・ガレアッツォ・マリーアの摂政となります。

1477年、ボナ・ディ・サヴォイアの塔が建てられます。

その後、ガレアッツォの弟ルドヴィーゴ・マリーア・スフォルツァ(通称=イル・モーロ)が実権を握り、ミラノの支配者となり、甥のジャン・ガレアッツォたちを追放します。

1497年、お城の増改築は中断されます。また、ルドヴィーゴの妻ベアトリーチェが第3子を死産した後に死去します。

1499年、神聖ローマ帝国ハプスブルク家がフランス国と敵対し、ハプスブルク家を後ろ盾にしていたルドヴィコは神聖ローマ帝国側につきました。

1500年、フランス軍により、スフォルツェスコ城は包囲されます。スイス傭兵の裏切りなどがあり、ルドヴィーゴは1508年まで投獄され獄死となりました。また、フィラレーテ・タワーが爆発し半壊します。

1534年、フランチェスコ・スフォルツァが権力を取り戻しお城は修復されます。ただし、塔は無い状態です。その後は再び公爵の居城となる事はありませんでした。

1535年、ミラノ公国は、ミラノ公死去により神聖ローマ皇帝カール5世が継承し、スペイン領地となります。

16世紀~17世紀に増改築されていきます。

1701年にスペイン継承戦争が始まり、1707年にはオーストリアが支配、ラシュタット条約によってオーストリアのハプスブルク家の領地として正式に認められます。

1796年、ナポレオン・ボナパルトによって一部が破壊されます。

1891年~1905年、お城を修復。この時携わった建築家の中心人物はイタリアのルカ・ベルトラミです。

2013年に16世紀のフレスコ画の構造工事と修復が行われました。

 

スフォルツェスコ城の見所

スフォルツェスコ城は現在市立博物館として公開されています。ルネサンス期の工芸品や衣装、彫刻のコレクション等が展示されています。

レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの作品に触れる

ロンダニーニのピエタ(未完成)・・・ミケランジェロの最後の作品です。死の三日前まで彫り続けていたと言われています。イタリアの美術収集家であるロンダニー二邸にあった事から、この名称が付けられました。

♔サン・ピエトロ大聖堂にある『ピエタ』は、TVや書籍などで知っていましたが、こちらは初見です。だいぶ印象が違います。

ミケランジェロが手がけた『ピエタ』は4つあるそうです。その内の三つは未完で、唯一完成している作品はミケランジェロが最初に手がけた、サン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』です。

ちなみに他の二つは、ドゥオーモ博物館の『フィレンツェのピエタ』とアカデミア美術館の『パレストリーナのピエタ』です。

アッセの間・・・天井から壁にかけて桑の木が描かれている事が、1893年に歴史家ポール・ミュラー・ヴァルデの研究成果によって発見されます。

これは、500年以上前にレオナルド・ダ・ヴィンチが単色で装飾したものであるため、『モノクロ』と呼ばれています。後世に何度も上塗りされていたそうです。

♔なぜ塗りつぶされていたんでしょうね(?_?)

フィラレーテ・タワー・・・スフォルツェスコ城の中で一番高い塔です。中央の白い石造は【聖アンブロージョ石造】で、聖アンブロージョとは、四世紀のミラノ司教であり守護聖人です。

ルカ・ベルトラミによって復元された八角形のドームの周囲には、風の名前(ギリシャ神話・ローマ神話)が発見されたことにより、『風の塔』として考案されたと言われています。

※ 風の名前:AQUILO(アクィロ)/ SEPTENTRIO(セプテントリオ)=北風の神、APHRICUS(アフリクス)=西南の化身、SORANUS(ソーラヌス)=ソラクテ山(北ローマ)の神、AUSTER(オースター)=南風の神、ZEPHYRUS(ゼフィルス)=西風の神、EURUS(エウロス)=東風の神
(出典:Wikipediaより)

ROCCHETTA(ロケッタ)・・・城内で最も安全と言われるスペース(中庭)です。ここは、四方を5階建ての建物で囲まれています。回廊となっている部分の柱や装飾は建築されてきた年代によって様式が異なっています。

 

スフォルツェスコ城の近隣の見所

センピオーネ公園・・・スフォルツェスコ城の裏側にある、ミラノ市最大の緑豊かな公園です。その広さ約45m2もあるそうです。元々は、お城の敷地だったとされます。

園内には、市立図書館水族館、円形劇場、公園タワーがあり、ジョルジュ・ディ・キリコ『形而上の噴水(けいじじょうのふんすい)』と呼ばれるオブジェがあります。

そうなると、観光客が多いのでは?と思ったりしますが、緑地でピクニックしたり、ミラノ市民がゆったりのんびりとしているそうです(^^)

DUOMO(ドゥオーモ)・・・ミラノのシンボルとしても有名な、ゴシック建築の最高傑作。スフォルツェスコ城からは、徒歩15分くらいで行けちゃうので、ミラノに訪れた際は両方行っちゃいましょう♪

ドゥオーモからスフォルツェスコ城までは、ダンテ通りを真っ直ぐ一直線で結ばれています。

 

スフォルツァ家の女傑、カテリーナ・スフォルツァ

スフォルツァ家には、かの有名なヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアと争ったイタリアの女傑で知られるカテリーナ・スフォルツァ(ジャン・ガレアッツァの姉)がいます。

彼女の女傑と言わしめた最たるエピソードがあります。

ミラノフォルリの領主であった亡き夫の代わりに頑張っていた彼女。しかし子供と共に反乱側に囚われてしまいます。それでも城内の兵士たちは降伏しなかった為、彼女は自ら説得を買って出ました。

ところが、カテリーナはいつまでたっても戻ってきません。

当然、兵士たちは起こります。『早く出て来なければ子供を殺す!』と、脅しにかかります。

すると、彼女はお城の屋上から現れたかと思うと、とんでもない行動に出ました!

兵士たちが見ているのもお構いなしに、スカートをまくり上げ言い捨てます!

『子供ならここから何度でも産める!』

ただし、これは本当かどうか疑わしいと言われています。(うん、、、そうだろうね(^_^;))

その後、無事に反乱側は収められ、当事者一族もろとも処刑となりました。こんな勝気な彼女ですから、親族や領民からはあまり慕われていなかったとか。

1499年に、イモラ、フォルリがチェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)に攻め込まれ陥落した後、カテリーナはローマへ送られ修道院へ入れられます。その10年後、思い肺病を患い46歳で生涯を閉じます。

 

耽美映画の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ

スフォルツェスコ城の基盤を作った貴族ヴィスコンティ家の(傍系ではありますが)血を引く、イタリアの映画監督ルキノ・ヴィスコンティ。父親は北イタリアのモドローネ公爵、ルキノ・ヴィスコンティ自身は伯爵の称号を得ています。

※ルキノ・ヴィスコンティの主な作品・・・『山猫』、『ルードヴィヒ』、『ベニスに死す』、『若者のすべて』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『家族の肖像』、『地獄に落ちた勇者ども』、『夏の嵐』、『白夜』など。

 

まとめ・感想

ヴィスコンティ家が築き上げたミラノ公国は、その支配権をスフォルツァ家、フランス、スペイン、オーストリアと目まぐるしく変還していきました。

そんな中でスフォルツァ城は一部破壊されながらも、ベルトラミによって見事に復元されます。ルネサンス時代のお城とは思えない重厚な城壁などは、いかにも要塞という趣があります。

貴族ではなかったスフォルツァ家は、ヴィスコンティ家の紋章である『蛇(ビィショーネ)』を自家の紋章として使用していたそうです。この紋章がちょっと変わっていて、蛇(ビショーネ)が人を飲み込む様子の紋章なんです(゜ロ゜)

これについての由来は諸説あるそうで・・・一つはヴィスコンティ家の先祖が森に住む人食い大蛇を退治した。。。または、先祖が十字軍遠征の際に戦った敵が付けていた紋章であったとも。

ミラノ公国の紋章にも、この『蛇(ビショーネ)』が使われています。

また、ミラノで創立されたこともあってか、イタリアで有名な自動車メーカー、アルファロメオのエンブレムは、ミラノ市の紋章の赤十字とヴィスコンティ家の紋章のビショーネを組み合わせたものなんだそうですよ。

このエンブレム、昔は下側に『MILANO』と入っていたようなんですが、1972年からなくなっています。あった方がデザイン的には良かったような・・・(^_^;)

けっこう車のエンブレムは好きで、子供の頃に一目惚れしたのがポルシェのエンブレムでした(^^ゞ 見かけるたび胸がトキメイタのを思い出します。。。(o^^o) 

 

(✽)1447年8月~1450年2月までの間、ミラノに成立した共和国。ヴィスコンティ家最後のミラノ公となる、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが亡くなると、継承争いが始まり、市民を代表する24人からなる共和国樹立が宣言されました。

しかし、ヴィスコンティの娘の夫である傭兵隊長であったフランチェスコ・スフォルツァがベネチアと手を結び攻撃をしたため、共和国は崩壊しました。

 

参考資料:スフォルツェスコ城公式URL=https://www.milanocastello.it/en(英語)

参考資料:ヨーロッパの古城+宮殿がよくわかる本 / 桐生操監修 / 株式会社レッカ社 2010年

他多数のWebサイトから参考にしております

アルファロメオ公式サイト(英語):https://www.alfaromeo.com/ 

アルファロメオ公式サイト(日本):https://www.alfaromeo-jp.com/

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