姫路城

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姫路城

gosia64によるPixabayからの画像

その姿から『白鷺城』と呼ばれる【姫路城】は、【松本城】【犬山城】【彦根城】【松江城】と共に日本の国宝に指定されており、総称して『国宝五城(こくほうごじょう)』と呼ばれています。

その中で姫路城は、1993年に奈良の【法隆寺】と共に日本で最初のユネスコ『世界遺産』(世界文化遺産)となりました。

      目次

 

国名 / 所在地

日本国(にほんこく、又は、にっぽんこく)/ 兵庫県姫路市本町

 

概要

江戸時代初期の建築が残る姫路城現存する12天守の一つである連立式天守は、愛媛の【松山城】、和歌山の【和歌山城】と並ぶ『三大連立式平山城』として人気があります。

♔連立式とは、天守の縄張りの型式をいいます。天守には『独立式』『連結式』『連立式』『複合式』の4つに大きく区別されています。

その中でも姫路城などの天守に用いられている『連立式』は複雑であり、また防御力に優れているとされています。

また、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の城壁の美しさから『白鷺城(はくろじょう、または、しらさぎじょう)』と呼ばれています。

♔白漆喰総塗籠とは、木材を白の漆喰で塗り固めて防火、耐火を高めた工法です。

平成の大修理(2009年~2015年)の姫路城は、屋根瓦の目地にも用いているため以前よりも白く見えると話題にもなりましたね。

実際、私が訪れた時はもっと黒っぽかったです(^_^;) 後にあれはカビや汚れだと知りましたけど・・・。

なんでも、あの白さはそう長くはもたないそうで、もって3年くらいなんだとか。

完成が2015年3月なので、もう4年。。。ということはそろそろ以前の姿に戻りつつある?

正平元年(1346年)に赤松貞範(播磨の守護大名で武将)が、姫山と呼ばれた地に小規模な砦の様なものを築きます。

戦国時代後期から少しずつ大規模な城郭へと拡張されていきます。

現存の姿になったのは、慶長14年(1609年)に池田輝政徳川家康の次女督姫(とくひめ)の夫)によるものです。

徳川家康の孫娘、千姫はわずか7歳で豊臣秀頼に嫁ぐも12年後に夫と死別します。

その後、姫路城主本多忠政の嫡男、忠刻(ただとき)と再婚し、10年間姫路城で暮らしています。

西の丸の化粧櫓(けしょうやぐら)は千姫の化粧料で建てられたものです。

昭和に入ると、2度の空襲に遭いつつも焼失は免れ、大天守や城郭建築の姿を今も残しています。

♔時代劇でよく撮影の舞台として使用されますね(^_^) 昔、親が見ていた時代劇では『江戸城』に見立てて使われていました。

 

建築様式

木造城郭建築

 

建設の歴史

起源は、元弘(げんこう)3年(1333年)。播磨国守護であった赤松則村(法名:円心)が、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)の命によって挙兵する際、姫山に砦を築きます。

室町時代
正平(しょうへい)元年(1346年)、則村の長子である赤松貞範が本格的な城郭とし、姫山城(姫路城の前身とされる)を築きます。

嘉吉(かきつ)元年(1441年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)教康(のりやす)親子は、『嘉吉の乱』により播磨にて幕府の討伐軍に敗北し、自害します。

赤松家は断絶し後に軍を率いていた山名持豊(やまなもちゆたか)が、姫路城を治めます。

戦国時代
応仁(おうにん)元年(1467年)、細川勝元派で播磨の守護家である赤松政則が、播磨を奪回し領国を回復させると、鶴見丸城亀居丸城を築きます。

文明(ぶんめい)元年(1469年)政則は標高370mの城山に置塩城(おきしおじょう)を築き本拠地を移したため、一族の小寺豊職(こでらとよもと)が後を守る事に。

天文(てんもん)14年(1545年)、豊職の息子、政隆御着城(ごちゃくじょう)を築き本城としたため、重臣の黒田重隆に後を任せます。また、この頃に、城郭へ拡張していったとされます。

戦国時代~安土桃山時代
天文15年に、職隆(もとたか)の嫡男である黒田孝高(後の黒田官兵衛)が生まれています。城主として治めていたのは、永禄(えいろく)10年(1567年)から天正(てんしょう)元年(157
3年)です。

天正(てんしょう)5年(1577年)、孝高は織田信長から中国地侵攻の命を受けていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)へ、本丸を献上し、その後仕える事になります。

8年(1580年)4月~翌年3月にかけて、秀吉はお城の大改修を行い、石垣で城郭を囲い3重(層)の天守閣を築きます。この時に【姫路城】と改名。

11年(1583年)、天下統一のため、拠点を大阪城へ移します。姫路城は、弟の豊臣秀長が城主となりますが、2年後には郡山城へ移ってしまいます。木下家定が次の城主となり、その後16年間治めています。

13年(1585年)、秀吉亡き後、内紛が起き徳川家康を中心とした「東軍」毛利輝元を総大将とする石田三成宇喜多家定を中心とした「西軍」が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)を中心に全国各地で野戦が行われます。

慶長(けいちょう)5年(1600年)、関ヶ原の合戦で功績を残した池田輝政は、三河吉田から姫路城の城主となります。その翌年に9年に渡る大改築を始めます。

江戸時代
慶長18年(1613年)、輝政の病死により長男の利隆が跡継ぎとなります。

22年(1617年)に利隆の跡を継ぐ光政が幼少のため、因幡鳥取へ移され伊勢桑名から本多忠政が城主として治めることになります。その後三の丸西の丸、他を増築していきます。

23年(1618年)、夫の秀頼を失くし実家に戻っていた徳川家康の孫娘である千姫は、忠政の嫡男忠刻に嫁ぎます。その後10年間をこの姫路城で暮らします。この時、化粧料(江戸時代の女性が嫁ぐ際に持参金として持たされる)を元にして、西の丸を整備します。

また、千姫の休息所として【化粧櫓】も築かれました。

寛永(かんえい)16年(1639年)、奥平(おくだいら)松平家の祖となる松平忠明(まつだいらただあきら)が城主となります。

♔この頃は譜代大名(関ヶ原の合戦以前から徳川氏の家臣だった者)が藩主をつとめていて、越前松平家、榊原家、本多家で激しく入れ替っています。

寛延(かんえん)2年(1749年)、酒井忠恭(さかいただずみ)が上野前橋藩主から播磨姫路藩主となります。その後、明治維新まで酒井家が城主を努めます。

徳川家最後の将軍慶喜と共にあった姫路藩も朝敵と見なされ、姫路城(城主:酒井忠惇(さかいただとう))は包囲されます。しかし、私財を差出してさらに家老たちは城主の留守中開城したため、攻防戦とはなりませんでした。

♔家老たち。。。諦めがいいな(笑) うん。無駄な抵抗せず開城したおかげで今の姫路城があると思えば(   ¯−¯ )b✧

明治時代
明治2年(1869年)、城主酒井忠邦版籍奉還(領地や領民を天皇陛下へ返すこと)し、姫路城は国有となります。

43年(1910年)、大修理が行われます。

大正時代
大正元年(1912年)、初めて一般公開されます。

昭和時代
昭和3年(1928年)、史跡に指定されます。

6年(1931年)、天守閣が国宝(旧国宝)に指定されます。

20年(1945年)、姫路の城下は空襲によって焼き尽くされます。城内にも数回着弾しますが、いずれも不発弾だったことから焼失を免れています。

26年(1951年)、新国宝に指定されます。

31年(1956年)、昭和の大修理が開始されます。(8ヵ年計画)

39年(1964年)、工事が完了。

平成時代
平成5年(1993年)、奈良の【法隆寺】と共に日本で最初のユネスコの世界文化遺産へ登録されます。

21年(2009年)、大天守保存修理の着工。

27年(2015年)、工事が完了。

 

姫路城の見所

ここ姫路城は、私が唯一行った事がある『世界遺産』の古城です(^O^)v

昔から一度は行ってみたい古城ナンバー1が【姫路城】でした。念願かなって訪れたのは今から10年前。なんと!平成の大修理が始まる2009年の夏(8月)です。

当時は修理が予定されている事も知らなかったまま行ったので、知った時は驚きました。「良かった~間に合って!」と何度思ったことか。(これを逃がしていたら5年はお預けになるとこだったわけです(^_^;))

※はじめにお断りしておきます。冒頭の写真出典:Pixabay以外は2009年8月当時のものですm(_ _)m (しかもとっても少ない。。。ボソ)

 

姫路城へは、駅から徒歩でも行ける!

姫路駅の北口からバスでお城の正面の『登閣口』近くまで連れて行ってくれますが、徒歩でも約20分くらいで着きます。北口から出ると姫路城の姿がもう見えていて、その方向へ真っ直ぐ進むだけなので迷う事もありません。

駅を出て大手前通りを歩いていると

↓こういったものに出会います♪


目玉が金色で、なんか迫力あります。

姫路の街中にはこういった鯱瓦のオブジェがいくつもあるようです。

 


ここは姫路城情報センターで、姫路城に関する情報が手に入ります。しかも無料!

しろまるひめが可愛い(^。^)

 

ここからは、いよいよお城の入口へと向かいます。


◆桜門橋・・・堀にかかっている橋です。江戸時代の木橋をイメージして平成19年(2007年)に築かれました。長さ22m、幅7mあるそうです。出典元姫路市公式ホームページ)


手前が桜門橋、奥に姫路城の姿が見えています。

 

姫路城のある景色と、そこから見る景色

ここからは、城内で特に印象に残ったところをご紹介していきたいと思います。(写真に撮っているからっていうのもありますが。。。そんなにあっちこっち撮っていなかった(^_^;))


◆世界遺産姫路城の石碑・・・桜門橋を渡り終えると大手門を通って、三の丸広場にでます。

そこでこの石碑がドーン!とあります。

実はこの裏側に、『世界遺産姫路城十景』の石碑もあります。この三の丸広場で見る姫路城が絶景スポットになっているんです。(当時は気づかなかったので写真がありません(^^ゞ)

 


◆鳥瞰図(ちょうかんず)・・・明治初期に書かれたものだと記されています。圧倒される広大さです。

 


◆狭間(さま)・・・この三角の穴は鉄砲用(丸いのもある)で、長方形は弓矢用の穴です。これを『鉄砲狭間(てっぽうざま)』、『矢狭間(やざま)』と言います。

この穴は外側に向けてだんだん狭くなっていて、射ち手からは攻撃しやすく、外からは狙いづらくしているんだそう。かつては、3000ヶ所以上あったとされていますが、今は300以下に。

ここで敵の襲来を攻撃しつつお城を守っていたんですね。

♔形は違えど、西洋のお城にも同じような造り穴がありますね。

 

◆菱の門・・・入城口にある、城内で最も大きな門(赤い枠線)です。菱の紋が刻まれている事からこの名が付いたとされます。(写真は大天守閣の中から撮影したものです。正面の写真がなぜか撮っていないかった。。。(>_<))

◆三国堀(さんごくぼり)・・・お城を守るための四角い堀(池)(青い枠線)です。

ここから道が二手に分かれています。この堀は大変重要な役割があり、水の確保意外に戦略的な面で敵の動きを分断させる目的もあったとされます。

 


◆ほノ門・・・姫路城にはたくさんの門があります。代表的なのは【大手門】、【菱の門】ですが、他にも、いろはが付いた門や、水が付いた門などがあります。

この【ほノ門】は『埋門(うずみもん)』と呼ばれるもので、石垣や土塀などの下部をくり抜いたように造られた小門の事をいいます。勝手口などに用いたとされます。『穴門』とも。

 


ほノ門を通り抜けて一枚。中央奥に【大天守】、右側が【西小天守】、左側が【乾小天守】。そして手前が【ハの渡櫓(わたりやぐら)】です。本当は一番左側に【東小天守】も見えるはずが・・・葉っぱに邪魔されていますヽ(;▽;)ノ

ここって全てが1度に見えるスポットらしいので、こんな失敗はしないように気を付けて下さい( ̄▽ ̄)/

 


右が【東小天守】、左が【大天守】です。

下から見上げるとこんな感じ(^^)

 


◆瓦紋(かわらもん)・・・姫路城の天守、櫓、土塀の屋根に使用される瓦には、代々城主となった家の紋が描かれています。築城、または修理の際、その時の城主の家紋が使用されたので、あちらこちらで見る事が出来ます。

全ての瓦紋を撮るのは無理だろうと思っていたら、ちょうど【瓦紋】が埋め込まれた石壁がありました。

 


右側が【大天守】、左側が【西小天守】です。

◆大天守・・・南側が正面となっています。大天守は5重に見えて実は、6階建ての地下1階という構造です。外観の屋根の数=重(層)、内部の床の数=階なんだそうです。なので正式には、5重(層)7階建て。

◆小天守(東、乾、西)・・・3重の小天守は3つあり、大天守と2重の渡櫓で結ばれています。また、それぞれの天守は、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓で繋がれています。

上の階へ行くほど階段の幅が狭く急角度になっているため、頭上に注意!

地下1階から地上6階までの段数は110段。

いよいよ天守の中へ入ります。

天守の中は土足厳禁!入口で袋を渡されるので、その中に靴を入れ、持ち歩きながら見学します。


格子窓のアップ写真。


割と急な階段。上の階へ行くほど勾配が厳しい。

 


大天守の2階。これは【千鳥破風】の内部。

 

◆千鳥破風(ちどりはふ)・・・屋根の妻側部分の造形のことを【破風(はふ)】と呼びます。この【破風】にはいくつか種類があり、そのうちの一つです。切妻破風に直接置いて造られます。今で言うと「出窓」の様なもの。

どうも3階の写真がない(;´Д`)

 


赤い枠線の部分が4階部分の【比翼千鳥破風(ひよくちどりはふ)】。千鳥破風が二つ並んでいます。

 


多分どこかの天井・・・(^_^;)

 


4階の【千鳥破風】。床板が年季入ってますね~。手前と奥とで古さが違うのが分かりますか?

 

◆石打棚・・・城外の敵を鉄砲などで攻撃する際に乗る台。

現在は階段の前に柵があり登れないようにしていますが、天守閣の構造上、窓の位置が高いのでこのように小階段を使って台へ登り射撃などをしていたそうです。

3階の南北とここ4階では四隅に設けられています。

本当は全体像があれば良かったんですけどね・・・(;・∀・)

 


5階へ繋がる階段。かなり急です。


割と見るのに集中していると、つい写真を撮るの忘れがちになるみたいです(^_^;)

思いのほか、少ない・・・。

しかし!これは撮っていました!


◆鯱瓦(しゃちがわら)・・・姫路城の鯱瓦は11基あります。(櫓や門なども含めると63基!)

鯱は体が魚、頭が虎、背中と尾ひれにトゲがある想像上の海魚です。火災除けのため、屋根に使用しますが、普通は口を開けているものと閉じているものが対になって両側に置かれています。

しかし、姫路城の大天守にある鯱は全て口を閉じています。その理由とは、昭和の大修理の際、口を閉じてた【鯱瓦】を見本にし、全部その形で復元したためなんだそうです。

平成の大修理でも最上層の鯱瓦を新しくされたそうですが、やはり口は閉じています。

この後、5階、6階と続くのですが、画像がありませんm(_ _)m

まず5階は外観からは分かりづらい構造になっています。敵を翻弄させるのが目的だとされます。

内部には、東大柱と西大柱がある1室となっていて、この二つの大きな柱は地階から5階の梁まで通されており、柱の最頂部を見る事が出来ます。

6階には神社があります。前身の姫山城の頃から祀られていたとされる『長壁神社(刑部神社・おさかべじんじゃ)』です。(出典元:姫路城周辺情報サイト)

姫路城の守り神様ですね。

また、この階には『幻の窓』が四隅にあります。平成の大修理中にその四隅の壁から窓枠が発見されています。なぜ窓から壁に変えられたのかは謎のままですが、【地震対策】と【強風対策】の2つの説があるようです。(出典元:姫路城公式ホームページ(姫路城大図鑑

 


◆化粧櫓(けしょうやぐら)・・・千姫が嫁ぐ際に持参した化粧料で建造された櫓です。(写真は天守からの眺め。)

元々ここ西の丸には、忠刻と千姫の住まいがあったとされる場所ですが、後に千姫の自由に出来る建物としてこの櫓が築かれます。千姫の休息所となっていたんだとか。

そして【ワの櫓】を入口として、この【化粧櫓】までの廊下がこちら↓


◆百間廊下(ひゃっけんろうか)・・・西の丸の長局(ながつぼね)と呼ばれる、約240mとなる長い廊下です。(ちょうど真ん中にお見苦しいものが、、、m(_ _)m)

ここに侍女たちが住んでいた小部屋が多数あり、千姫と侍女たちが遊んでいる当時の様子などが、人形で再現されています。

 

まとめ・感想

姫路城は、天守閣だけでなく城門や城壁、櫓までがそのまま現在も残っている大変希少な日本の古城です。(だから『世界遺産』にもなっているのでしょうが(^_^;))

400年以上も戦火の被害を受けずにきた姫路城が、唯一危機に遭ったのは『空襲』でした。大天守閣に【焼夷弾】が落とされましたが、運良く不発弾だったことにより、焼失せずに済んだそうです。

本当に良かった!!

見た目だけじゃない!行けば楽しくて見応えがあり『また行きたい!』となる。

とにかく姫路城は満足度の高い古城です。

★プチ情報
姫路城はフランス・ロワールにあるシャンティイ城と姉妹提携をしています。

 

 

参考資料:姫路市公式ホームページ=http://www.city.himeji.lg.jp/

参考資料:姫路城周辺情報サイト=https://castle-himeji.com/

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