エカテリーナ宮殿
今回ご紹介するのは、ロマノフ王朝ー帝政ロシアの女帝たちが愛した夏の離宮【エカテリーナ宮殿】です。
国名 / 所在地
ロシア連邦 / サンクトペテルブルクの南 25kmほど先、プーシキン区、ツァールスコエ・セロー
概要
ロマノフ朝時代の初代ロシア皇帝ピョートル1世(在位1682年~1725年)が建てた夏の離宮。その名も【エカテリーナ宮殿】。
皇帝は、この美しい宮殿に皇后の名を付けます。
バロック様式の宮殿は、鮮やかな青い壁に白い柱のコントラストで、美しさが際立ちます。
そこに金色の装飾がアクセントとなり、煌びやかさも増しています。
宮殿の最大の見所となっている【琥珀の間】では、壁一面みごとな琥珀が覆い尽くされています。
しかし、その後の世界大戦でドイツ軍に持ち去られることに・・・。
現在見られるのは、2003年に復元したものです。
建築様式
バロック様式(ロココ)、新古典主義様式
建築の歴史
1717年(ロマノフ朝時代)、後の初代ロシア皇帝ピョートル1世(ピョートル大帝)は、2番目の后となるエカテリーナ(エカテリーナ1世)のためにと、夏の離宮を建てます。
設計を任されたのは、ドイツの建築家ヨハン=フリードリヒ・ブラウンシュタインです。
最初は2階建ての質素なものだったようです。
後に、ピョートル大帝の姪である第4代ロシア皇帝アンナ・ヨアノブナ(在位1730年~1740年)の命で、ロシア建築家によって増改築されます。
1752年、ピョートル大帝とエカテリーナ1世の娘エリザヴェータが、第6代ロシア皇帝(在位1741年~1762年)となり、バロック様式へと大改築が開始されます。
この時任されたイタリアの建築家バルトロメオ・ラストレッリは、ロシア皇帝の冬宮として建てられた【冬宮殿(現エルミタージュ美術館)】を手がけた人物です。
宮殿の改築は、1756年まで続いたとされます。
完成した宮殿は、以前の質素なものから現在見られるロココ様式になり、全長325mにも及ぶ、美しく煌びやかな宮殿へと変貌しました。
♔エリザヴェータは、甥のカール・ペーター・ウルリヒ・ホルシュタイン=ゴットルプ(後のピョートル3世)を後継者に指名しています。改宗したカールは以降、『ピョートル』を名乗ります。
1756年、イギリスとプロイセン王国の間で結ばれた軍事同盟『ウェストミンスター条約』に対し、エリザヴェータは、イギリスとロシア間の条約違反だとし、反プロイセン側に付きます。
その後、フランス、オーストリアと『ヴェルサイユ条約』を結びます。
エリザヴェータは、フリードリヒ2世率いる、プロイセン軍を追い詰めますが、あと一歩のところで病に倒れ逝去します。
即位したピョートル3世は、プロイセン国王寄りだったため、フリードリヒ2世と『講和条約(平和条約)』を結びます。
そんな彼の妻であるゾフィー(エカテリーナ2世)が、ロシアの女帝として長く君臨するのは、ピョートル3世が即位してわずか半年の事でした。
♔エカテリーナ2世はドイツ人で、ロシアの血は入っていないにも関わらず、ロシアの女帝として34年間という長きに渡って君臨しています。
エカテリーナ2世は、ロココ調に不満をもっており、宮殿の南側一部は、スコットランドの建築家チャールズ・キャメロンによって、新古典様式へと改装されます。
美術品の収集家でもあった彼女は、それらを保管する建物を【冬宮殿】の離れとして建造していきます。
1990年に、エカテリーナ宮殿、冬宮殿とその周辺が、ユネスコの世界遺産『サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群』に登録されています。
エカテリーナ宮殿の見所
歴代の女帝たちが作り上げた華麗な宮殿【エカテリーナ宮殿】の魅力。
鏡の間・・・壁や床のいたるところに黄金に輝く装飾が施されています。いくつもの鏡や、光を取り入れるための窓など。
天井には『ロシアの勝利』と題した天井画。これは、一枚の絵ではなく部分ごとに描いてあるそうです。
琥珀の間・・・1770年に完成した琥珀に満ちた部屋。元々は、プロイセン王から琥珀のパネルの状態で贈られたものでした。
エリザヴェータが【冬宮殿】から琥珀を移設し、エカテリーナ2世がこの【琥珀の間】を完成させています。
第二次世界大戦で、宮殿はドイツ軍によって占領され、琥珀は持ち去られてしまったそうです。その後、2003年に復元されます。
ここは、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が、エカテリーナ2世に謁見したホールでもあります。
♔1782年、日本はまだ鎖国時代です。回船の船頭だった大黒屋光太夫は、白子の浦(現在の三重県鈴鹿市)を出航し江戸へ向かう途中に、暴風のためどんどん流され、最終的にアリューシャン列島アムチトカ島へ漂着します。
そこで彼は、ロシア語を習得しイルクーツクで、博学者キリル・ラクスマンと出会います。
キリルの協力を得て、サンクトペテルブルクへ向かいツァースルコエ・セローにて、女帝エカテリーナ2世に謁見し帰国の許可をもらい日本へ帰ることが出来ました。
見聞録として、桂川甫周(かつらがわほしゅう)が、大黒屋光太夫から聞き取りまとめた『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』などがあります。(出典:Wikipediaより)
リヨン・ホール・・・1781年~1783年、エカテリーナ2世のためにチャールズ・キャメロンが手がけた応接間
ラピスラズリと名前の由来にもなっている、リヨンから取り寄せた絹織物の壁が豪華さを表しています。
tracy0218によるPixabayからの画像 【小宮殿グロット】
エカテリーナ宮殿が建つツァールスコエ・セローとは、『皇帝の村』という意味があり、当時は皇族たちの避暑地として栄えていたそうです。
敷地内は、広大な公園となっていて、大池やエカテリーナ2世がお茶を楽しんでいたとされるグロット、エルミタージュ、シノワズリの装飾が楽しめる中国館などの別棟が、数多く見られます。
まとめ・感想
歴代の女帝たちによって、増改築されてきた【エカテリーナ宮殿】ですが、第二次世界大戦で失ったものは多く、現在見ることの出来るものは、戦後の復元によるものが大きいそうです。
『夏の離宮』の名がピッタリとくる、鮮やかな「青」というよりは、水色がとても印象的です。
正直、金の装飾にはそれほど心が揺らぎませんが、、、(『琥珀の間』などは、実際に見たら目がチカチカしそうです(^_^;))
エカテリーナ公園のパビリオン、庭園内の散策に時間がとられそうですね。
参考資料:エカテリーナ宮殿公式サイトURL=http://www.tzar.ru/info
参考資料:サンクトペテルブルク URL=http://www.saint-petersburg-com/catherine-palace/
参考資料:世界で一番美しいお城 水野久美著/大和書房 2014年
参考資料:世界一美しい夢のお城図鑑 世界のお城研究会(蓮見清一)/㈱宝島社 2014年
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