ペーナ宮殿(ペーナ国立宮殿)
世界遺産の町「シントラ」の岩山の上に建つ、19世紀のロマン主義を代表する【ペーナ宮殿】
国名/所在地
ポルトガル共和国 / リスボン郊外、シントラ
概要
ポルトガルの女王マリア2世の王配であるフェルナンド2世が、18世紀半ばに起きたリスボン地震で廃墟となった修道院を改修し、王家の離宮として建てたペーナ宮殿は、19世紀のロマン主義建築の代表として名高いシントラの建築物です。
深緑が広がるペーナ公園の東側、標高528mのシントラの山頂に建てられた宮殿は、ゴシック・リバイバル様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・イスラム様式、ネオ・マヌエル様式など、様々な建築様式が混在した建物となっています。
赤い壁の塔はプライベートチャペル、黄色い壁の建物部分は王の住居となっています。
フェルナンド2世は生涯をこの宮殿の建築に費やします。
建築様式
ゴシック・リバイバル様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・イスラム様式、ネオ・マヌエル様式
歴史
起源は15世紀に建てられた旧修道院です。その後16世紀初めにポルトガル国王マヌエル1世が、シントラの岩山の上にペーナの聖母を讃えるためジェロニモス修道院を建てました。
1755年に起きたリスボン地震によって廃墟となっていた修道院とその周辺は、ポルトガル女王マリア2世の王配フェルナンド2世によって修復されていきます。
フェルナンド2世は、王家離宮としての夢の宮殿建築を計画します。
1843年ごろには、ペーナ宮殿に新しい大ホールやキッチン、円形の塔を増築していきます。
1853年、マリア2世が逝去したのち、息子のペドロ5世の摂政となり、晩年にはオペラ歌手のエリゼ・ヘンスラー(エドラ伯爵夫人)と再婚します。
1885年、ペーナ宮殿の建設が完成しますが、王はその目で完成を見ることは叶いませんでした。
♔フェルナンド2世から王位を継いだペドロ5世は、ウィキによると、
福祉や国民経済の発展に熱心で、近代化の取り組み、交通機関や公衆衛生の発展にも積極的だったそうです。
しかし、24歳の若さでコレラによって死去。子供がいなかったため、王位を継いだのはマリア2世とフェルナンド2世の次男ルイス1世でした。
1889年、ルイス1世が亡くなり、長男のカルロス1世がポルトガル王となります。
フェルナンド2世は、ペーナ宮殿を含む全財産をエリゼ・ヘンスラーに残しますが、カルロス1世(ポルトガル王)にムーア城とペーナ宮殿を買い取られ、2つの城は国の所有となります。
カルロス1世(ポルトガル王)と王妃アメリア(フランス王ルイ・フィリップの曾孫)は、ペーナ宮殿を好み、その殆どを過ごしていたとされます。
1908年にカルロス1世(ポルトガル王)が暗殺され、長男もその時に死亡。次男のマヌエル2世が王位を継ぎます。
1910年、城内でポルトガルの共和国樹立の報せを受け、母アメリアとそのままイギリスへ亡命します。
1995年に『シントラの文化的景観』の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。
ペーナ宮殿の見所
ユーラシア大陸の最西端に位置するポルトガルは、日本や中国などの東アジアに海路で交流をもったヨーロッパで最初の国家です。
15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた大航海時代(ポルトガルとスペインを中心にヨーロッパで広がった航海ブーム)の名残りか、ペーナ宮殿でも海洋関連のモチーフが至るところで見られるそうです。
また、ポルトガルと言えばアズレージョ(ポルトガル・スペインで生産されたタイル)が有名で、宮殿や教会など建築の重要な要素として用いられています。
このペーナ宮殿でも多くのアズレージョが使用されています。
♔アズレージョはスペインからポルトガルに伝わっていますが、元々はイスラム教徒の装飾タイルがスペインへ持ち込まれたようです。それまでは青色のとても美しい装飾タイルでしたが、やがて単色から多彩色へと変化し、装飾デザインも多種多様になっていったようです。
寓話の門(Allegorical Gateway)・・・薄紫色の建物で左右に塔があります。ギリシャ神話の海王ポセイドンの息子トリトンの像が一際目を引きます。門を抜けるとその先には、大西洋が望める展望台になります。
アメリア王妃の部屋・・・イスラム・ムデハル様式の壁や天井の寝室で、アメリア王妃の前は、フェルナンド2世の寝室として使用されていました。
カルロス1世の部屋・・・寝室以外にバスルームが備え付けられています。
グレート・ホール・・・フェルナンド2世が要人を招待するために造らせた応接間です。他の部屋とは異なり、丸窓や平面的な天井になっています。
礼拝堂・・・16世紀に建てられた修道院の礼拝堂です。マヌエル様式のリブ・ヴォールト天井と多色刷りのタイルの壁。また、フェルナンド2世が発注したニュルンベルクのステンドグラスには、マヌエル1世やバスコ・ダ・ガマが描かれています。
アラビック・ルーム・・・チェコで馴染みのスグラッフィートの手法(だまし絵ですね)を施した天井や壁の部屋。
書斎・・・フェルナンド2世の2番目の妃エリゼ・ヘンスラー(エドラ伯爵夫人)が使用していた書斎です。後にアメリア王妃も使っていました。
この他にも、侍女の部屋やアトリアなど多彩な部屋が数多くあります。
赤い塔の周りを囲むウォール・ウォークからの眺めは絶景だそうで、フェルナンド2世が修復したという、ムーア城跡も見えます。
シントラ国立宮殿とムーア城跡
イスラム教徒がイベリア半島を支配していた時代、シントラには2つの城がありました。
一つはカステロ・ドス・モウロス(ムーア人の城)と呼ばれていた城で、シントラの山上に建てられていました。現在は廃墟となっています。
そしてもう一つは、かつてシントラを支配していたムーア人の住居です。
その後は、15世紀初頭から19世紀後半までポルトガル王家が住んでいたとされるシントラ宮殿。
1755年のリスボン地震で損傷した宮殿は修復され、再びポルトガル王家が好んで過ごす場所となります。
1910年のポルトガル共和国樹立にともない国の文化財となったシントラ宮殿は、修繕を経て、世界遺産となります。
まとめ・感想
フェルナンド2世は、あのルートヴィッヒ2世の親戚なんだそうで(確証はありません(^^;)、芸術を愛し、とてもロマンチストでかなり感性が似ているのかもしれませんね。
しかし、二人とも生涯をかけた夢のお城の完成を見ずして亡くなるとか、そんなとこも共通しているなんて、、、。
ペーナ宮殿は、外観の好みはさておき、複合建築の良さは、一つの建物でいろいろな様式を見られる事にあると思います。この宮殿では、ポルトガル独自のマヌエル様式が魅力の一つとなっているのでしょうね。
このマヌエル様式とは、15世紀後半~16世紀の当時ポルトガル王マヌエル1世の時代に流行した豪奢な装飾を施した建築様式を言います。
特に16世紀前半のポルトガルは、大航海時代と呼ばれ、海外交易で利益を得ていたため、豪華な建物が沢山建てられていたそうです。
夢見がちな王が自分の宮殿に取り入れないわけがない、、、(^.^)
参考資料:ペーナ国立宮殿公式サイト=https://www.parquesdesntra.pt/
参考資料:世界で一番美しいお城 水野久美著/大和書房 2014年
参考資料:世界一美しい夢のお城図鑑 世界のお城研究会(蓮見清一)/㈱宝島社 2014年
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