ケルフィリー城
Greg MontaniによるPixabayからの画像
イギリスのウェールズには、数百以上の歴史ある古城が存在します。
有名なところで、世界遺産となっているエドワード1世が建てた4つのお城、【カーナヴォン城】【ビューマリス城】【コンウィ城】【ハーレフ城】があります。
エドワード1世は、これら以外にも数多くの要塞をこの地に築いています。
しかし、ウェールズ最大といわれる要塞を建てたのは、この地の領主であったギルバート・ド・クレアでした。
その要塞が【ケルフィリー城】です。
国名 / 所在地
イギリス、ウェールズ 南部、グラモーガン地区、ケルフィリー
※正式名称:グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
建築様式
集中式城郭(天守を二重か、それ以上の城壁で囲い防御しているお城のこと。 出典:Wikipediaより)
建設の歴史
ローマ時代の砦跡に、1268年~1271年にかけて南ウェールズを統治していたギルバート・ド・クレアによって建てられます。
ケルフィリー城は、大規模な水濠(ダム湖)で天守の周りを囲み防御された造りとなっています。
ギルバートの死後、相続人の一人エレノア・ド・クレアと婚姻関係にあった、ヒュー・ル・ディスペンサー(小ディスペンサー※父子で同名のため息子はこう呼ばれていたそうです。)にお城が与えられます。
ディスペンサーは、エドワード2世の寵愛を受けており、側近である父(初代ウィンチェスター伯)とともに権力を振るっていました。
ウェールズのグラモーガン領主となったディスペンサーは、さらにウェールズでの領土拡大へと動きます。
その為多くの敵をつくるととなり、ついには王妃イザベラをも敵にまわしてしまいます。
1326年、王妃イザベラの陰謀(クーデター)によってディスペンサー父子は処刑されます。また、エドワード2世も廃位後惨殺となりました。
と、そんな最後を遂げてしまうディスペンサーは、このケルフィリー城をさらに堅牢な要塞へと強化させた人物なのです。
イザベラのクーデターによって何ヶ月も籠城し抵抗出来たのも、そのためといわれています。
15世紀には、牢獄として使用されています。
その後、ペンブルック伯ヘンリー・ハーバートの居城となります。
清教徒革命(✽)(ピューリタン革命(1642年~1649年))の際に爆撃された塔は、傾いたままの状態で残されており、このお城の最大の観光スポットとなっています。
1776年、初代ビュート侯爵がお城を取得し、修復、再建が代々行われていきました。
1870年代には、大ホールが改装されます。
現在は保護団体によって管理され、一般公開されています。
まとめ・感想
今は廃城であるケルフィリー城は、ウィンザー城に次ぐイギリスで2番目の規模を誇る城郭とされ、第一級指定建築物なっています。
私は廃城オタクではありませんが、廃墟のある風景ってわりと好きです。
かつてここにはどんな人が住んでいて、どんな生活をしていたのか、、、その時代へ思いを馳せてみたりします(^^)
装飾の施された豪華な宮殿も見ていて楽しいのですが、このケルフィリー城のような石造りの要塞(城塞)も見ていて飽きません。
(✽)イングランド、スコットランド、アイルランドで起きた内戦。絶対王政に反発したキリスト教プロテスタントの一派『ピューリタン』を中心としていたため、こう呼ばれています。
参考資料:ケルフィリー城公式サイト=https://www.istcaehilly.com/
参考資料:ウェールズ公式サイト=https://cadw.gov.wales/
参考資料:ヨーロッパの「古城・宮殿」がよくわかる本 桐生操監修/株式会社レッカ社
他多数のWebサイトから参考にしております
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